「で、どうなんですか」と言われても、「性別化の式はラカンの夢に過ぎない」にて間接的に答えたつもりなんだがね。やむえず直接的に言うなら、松本卓也の『享楽社会論』の性別化の式をめぐる記述は、ラカンの夢に依拠したものであり、本来の享楽とは異なる二次的なものに過ぎないということだ。偽日記に引用があるから、そのまま貼り付けておく。
偽日記(古谷利裕)2021-12-22 引用、メモ。『享楽社会論』(松本卓也)、第3章「性別化の式について」から。キルケゴールがいかにしてファルス関数から逸脱し得たのかについて。 |
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《『アンコール』では、おそらくこのキルケゴールの記述(レギーネの結婚に関する『日誌』の記述)と関連する議論がなされている。ただし、それはラカン自身によるものではなく、セミネールの最中において行われたフランソワ・ルカナティによる口頭発表である。ルカナティによれば、キルケゴールは男性側の式における大衆(∀xΦx)/例外者(∃x¬Φx)のどちらをとるか、という点で苦悩しているのだという。つまり、大衆なかの一人としてレギーネと結婚することを夢想するか、例外者の位置を占めてレギーネを断念して神の愛の道をすすむか、という二者択一(「あれか、これか」)の前で立ちすくんでいるのである。他方、キルケゴールが見るかぎり、レギーネにはその二者択一がそもそも存在しない。そのことをキルケゴールは批難していると考えられる。》 |
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《ここで注目すべきなのは、男性側の式における例外と、キルケゴールのもちいる例外の違いである。前者の例外では、男性その人は普遍の側、つまりファルス享楽に甘んじる側にいながら、ファルス享楽ではない〈他〉の享楽が自分以外の誰か(=例外者)のもとに存在することに信が置かれている。対して、後者の例外では、キルケゴールはもはや普遍の側にいることをやめ、自らが例外の位置を占めることになる。》 |
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《ここ(ラカン『アンコール』)では、キルケゴールが最終的に到達した愛ないし欲望が、〈他者〉(レギーネ)を対象a(フェティッシュ)に還元することによって得られたファルス享楽ではない、ということがはっきりと述べられている。もちろん、その愛はすぐに手に入れられたわけではない。おそらく、婚約破棄以前のキルケゴールは、レギーネを対象aとして愛するファルス享楽の段階、すなわち宮廷愛の段階にいた。しかし、彼は婚約破棄後の思索のなかで、その第一段階の愛のポジションを自ら捨てた。そのことをラカンは「自らを去勢し、愛を諦める」と表現しているのである。》 |
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《(…)ファルス享楽は男性の享楽を器官(ペニス)に集約することによって、男性が女性の身体を享楽することを不可能にしてしまう。この意味で、キルケゴールはすでに愛の第一段階のポジションにおいて、「絶対的享楽」からはすでに去勢されているといえよう。(…)この第一段階において、彼はほかの男性と同じように、普遍(∀xΦx)の側から女性と関係しようとしている。それは、女性を対象aに還元した上でなされる、主体(S)から対象aに向けられた愛である。この愛の関係においては、到達不可能な「女性なるもの」(La)としてのレギーネとの関係は必然的に無限に延期されざるを得ず、もしその間隙(性関係のなさ)を空想的に埋めようとするならば、それは宮廷愛となるだろう。》 |
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《ついで、レギーネに対するファルス享楽の愛を諦めることによって、キルケゴールが愛の第二段階へと移動するとき、彼は普遍(∀xΦx)の側にある自分を、自らの手によってふたたび去勢する。ラカンによれば、ここでいう「去勢」は、ファルス関数それ自体がもつ去勢の機能ではなく、むしろファルス関数(Φx)に「否」をつきつけ、それを無効化することである。この「去勢」によって彼は、宮廷愛のような普遍(∀xΦx)の側に立ちながら例外の存在(∃x¬Φx)を信じるのではなく、ファルス関数の影響を受けない例外そのものになる。ここで彼は、女性を対象aに還元することを放棄する。つまり彼は、対象aへの愛、ファルス享楽を犠牲にして、それを超えた神の愛、すなわち〈他〉の享楽を得ようと試みているのである。》 |
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《キルケゴールの愛が第二段階に達するとき、彼は例外者になる。例外の位置に至ったキルケゴールは、レギーネ---もはや、それはレギーネではなく、神と呼ぶべきであろう---との関係に入る。この次元に達したときにはじめて、「女性なるものは存在しない(…)」を超えた「レギーネもまた存在した(…)」と表現するほかないような神の愛、〈他〉の享楽の可能性がひらける。おそらくラカンはそう言っているのである。》 |
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《第二段階の去勢によってファルス享楽を消滅させ、〈他〉の享楽の座に到達しようとすること。これはキルケゴールだけに生じた事態ではない。女性側の式における〈他〉の享楽のパラダイムが神秘主義であるとすれば、ここで検討している男性側の式における第二段階の去勢のそれは、キュベー崇拝やスコプチなどの異教にみられる禁欲主義ではないか。(…)自らの欲望を犠牲にし、去勢された人間は、〈他〉(=〈他者〉)の享楽の対象になる。キュベレー崇拝やスコプチの信者にみられる禁欲主義は、キルケゴールと同じように欲望を拒絶し、謎めいた〈他〉の享楽を取り扱おうとする試みだったのである。》 |
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《(…)なお、ブルース・フィンクは、男性と女性の違いについて、男性はファルス享楽と〈他〉の享楽のどちらかひとつを選ばなければならない、つまり片方の享楽を得るためにはもう片方の享楽を断念(あれかこれか)しなければならないのに対して、女性はどちらか一方を断念することなしに両者を得ることができる、と指摘している。》 |
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《現代ラカン派---特にミレール---の解釈を信じるならば、ファルス享楽を去勢して到達されるこの享楽は、〈一者〉の享楽、すなわち他の誰とも共約できないような「ひとつきり」の享楽と同じものなのだという。》 |
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とても頑張って注釈しているのはよくわかるが、上の記述で本来の享楽に近づいているのは、《現代ラカン派---特にミレール---の解釈を信じるならば、ファルス享楽を去勢して到達されるこの享楽は、〈一者〉の享楽、すなわち他の誰とも共約できないような「ひとつきり」の享楽と同じものなのだという。》の部分だけだ。一者の享楽は固着の享楽であり、これが享楽自体だから。➡︎「一者のシニフィアンは固着である」 とはいえ、松本卓也くんは「ミレールの解釈を信じるなら」と記しているが、前回示したように、ミレールは厳密にラカンの言っていることに則っているだけで「解釈」ではない。わかりやすく「翻訳」しただけである。この松本卓也の記述は、この2018年の時点の彼が充分には後期ラカンを読み込んでいない証拠である。 なお、いまツイッターで検索してみたらこんなの落ちていたので、これも貼り付けておくよ。
こういった議論自体、無意味というつもりはないが(とくに社会学的に)、あくまで二次的な享楽をめぐっており、女性の享楽とは身体の出来事の享楽(固着の享楽)であり、男女両性にある享楽自体である。つまりフロイトの欲動と厳密に等価である。 ※なおジャック=アラン・ミレールは、この二次的なレベルでの性別化の式をめぐる享楽の注釈を1999年にしている。➡︎ 「パロール享楽という被愛妄想的享楽」 ……………… ◼️補足 「ラカンの享楽は厳密にフロイトの欲動」としたことについて補っておこう。
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