2022年9月15日木曜日

松本卓也の性別化の式をめぐる記述(『享楽社会論』)

 

「で、どうなんですか」と言われても、「性別化の式はラカンの夢に過ぎない」にて間接的に答えたつもりなんだがね。やむえず直接的に言うなら、松本卓也の『享楽社会論』の性別化の式をめぐる記述は、ラカンの夢に依拠したものであり、本来の享楽とは異なる二次的なものに過ぎないということだ。偽日記に引用があるから、そのまま貼り付けておく。



偽日記(古谷利裕)2021-12-22

引用、メモ。『享楽社会論』(松本卓也)、第3章「性別化の式について」から。キルケゴールがいかにしてファルス関数から逸脱し得たのかについて。


《『アンコール』では、おそらくこのキルケゴールの記述(レギーネの結婚に関する『日誌』の記述)と関連する議論がなされている。ただし、それはラカン自身によるものではなく、セミネールの最中において行われたフランソワ・ルカナティによる口頭発表である。ルカナティによれば、キルケゴールは男性側の式における大衆(∀xΦx)/例外者(∃x¬Φx)のどちらをとるか、という点で苦悩しているのだという。つまり、大衆なかの一人としてレギーネと結婚することを夢想するか、例外者の位置を占めてレギーネを断念して神の愛の道をすすむか、という二者択一(「あれか、これか」)の前で立ちすくんでいるのである。他方、キルケゴールが見るかぎり、レギーネにはその二者択一がそもそも存在しない。そのことをキルケゴールは批難していると考えられる。》

《ここで注目すべきなのは、男性側の式における例外と、キルケゴールのもちいる例外の違いである。前者の例外では、男性その人は普遍の側、つまりファルス享楽に甘んじる側にいながら、ファルス享楽ではない〈他〉の享楽が自分以外の誰か(=例外者)のもとに存在することに信が置かれている。対して、後者の例外では、キルケゴールはもはや普遍の側にいることをやめ、自らが例外の位置を占めることになる。》

《ここ(ラカン『アンコール』)では、キルケゴールが最終的に到達した愛ないし欲望が、〈他者〉(レギーネ)を対象a(フェティッシュ)に還元することによって得られたファルス享楽ではない、ということがはっきりと述べられている。もちろん、その愛はすぐに手に入れられたわけではない。おそらく、婚約破棄以前のキルケゴールは、レギーネを対象aとして愛するファルス享楽の段階、すなわち宮廷愛の段階にいた。しかし、彼は婚約破棄後の思索のなかで、その第一段階の愛のポジションを自ら捨てた。そのことをラカンは「自らを去勢し、愛を諦める」と表現しているのである。》

《(…)ファルス享楽は男性の享楽を器官(ペニス)に集約することによって、男性が女性の身体を享楽することを不可能にしてしまう。この意味で、キルケゴールはすでに愛の第一段階のポジションにおいて、「絶対的享楽」からはすでに去勢されているといえよう。(…)この第一段階において、彼はほかの男性と同じように、普遍(∀xΦx)の側から女性と関係しようとしている。それは、女性を対象aに還元した上でなされる、主体(S)から対象aに向けられた愛である。この愛の関係においては、到達不可能な「女性なるもの」(La)としてのレギーネとの関係は必然的に無限に延期されざるを得ず、もしその間隙(性関係のなさ)を空想的に埋めようとするならば、それは宮廷愛となるだろう。》

《ついで、レギーネに対するファルス享楽の愛を諦めることによって、キルケゴールが愛の第二段階へと移動するとき、彼は普遍(∀xΦx)の側にある自分を、自らの手によってふたたび去勢する。ラカンによれば、ここでいう「去勢」は、ファルス関数それ自体がもつ去勢の機能ではなく、むしろファルス関数(Φx)に「否」をつきつけ、それを無効化することである。この「去勢」によって彼は、宮廷愛のような普遍(∀xΦx)の側に立ちながら例外の存在(∃x¬Φx)を信じるのではなく、ファルス関数の影響を受けない例外そのものになる。ここで彼は、女性を対象aに還元することを放棄する。つまり彼は、対象aへの愛、ファルス享楽を犠牲にして、それを超えた神の愛、すなわち〈他〉の享楽を得ようと試みているのである。》

《キルケゴールの愛が第二段階に達するとき、彼は例外者になる。例外の位置に至ったキルケゴールは、レギーネ---もはや、それはレギーネではなく、神と呼ぶべきであろう---との関係に入る。この次元に達したときにはじめて、「女性なるものは存在しない(…)」を超えた「レギーネもまた存在した(…)」と表現するほかないような神の愛、〈他〉の享楽の可能性がひらける。おそらくラカンはそう言っているのである。》

《第二段階の去勢によってファルス享楽を消滅させ、〈他〉の享楽の座に到達しようとすること。これはキルケゴールだけに生じた事態ではない。女性側の式における〈他〉の享楽のパラダイムが神秘主義であるとすれば、ここで検討している男性側の式における第二段階の去勢のそれは、キュベー崇拝やスコプチなどの異教にみられる禁欲主義ではないか。(…)自らの欲望を犠牲にし、去勢された人間は、〈他〉(=〈他者〉)の享楽の対象になる。キュベレー崇拝やスコプチの信者にみられる禁欲主義は、キルケゴールと同じように欲望を拒絶し、謎めいた〈他〉の享楽を取り扱おうとする試みだったのである。》

《(…)なお、ブルース・フィンクは、男性と女性の違いについて、男性はファルス享楽と〈他〉の享楽のどちらかひとつを選ばなければならない、つまり片方の享楽を得るためにはもう片方の享楽を断念(あれかこれか)しなければならないのに対して、女性はどちらか一方を断念することなしに両者を得ることができる、と指摘している。》

《現代ラカン派---特にミレール---の解釈を信じるならば、ファルス享楽を去勢して到達されるこの享楽は、〈一者〉の享楽、すなわち他の誰とも共約できないような「ひとつきり」の享楽と同じものなのだという。》




とても頑張って注釈しているのはよくわかるが、上の記述で本来の享楽に近づいているのは、《現代ラカン派---特にミレール---の解釈を信じるならば、ファルス享楽を去勢して到達されるこの享楽は、〈一者〉の享楽、すなわち他の誰とも共約できないような「ひとつきり」の享楽と同じものなのだという。》の部分だけだ。一者の享楽は固着の享楽であり、これが享楽自体だから。➡︎一者のシニフィアンは固着である

とはいえ、松本卓也くんは「ミレールの解釈を信じるなら」と記しているが、前回示したように、ミレールは厳密にラカンの言っていることに則っているだけで「解釈」ではない。わかりやすく「翻訳」しただけである。この松本卓也の記述は、この2018年の時点の彼が充分には後期ラカンを読み込んでいない証拠である。

なお、いまツイッターで検索してみたらこんなの落ちていたので、これも貼り付けておくよ。

千葉雅也@masayachiba Apr 8, 2018

RT 柴田英里の言ってることってほぼ「女性のファルス享楽」の擁護ないしそのリアリティの剔出であって、主流派(=反ファルス享楽派)にとっては当然ある種のバックラッシュに映る(そして、彼女のロジックを援用する人々は往々にしてジェンダー・バックラッシュに加担している)。(松本卓也)

RT 柴田英里の言ってることってほぼ「女性のファルス享楽」の擁護ないしそのリアリティの剔出であって、主流派(=反ファルス享楽派)にとっては当然ある種のバックラッシュに映る(そして、彼女のロジックを援用する人々は往々にしてジェンダー・バックラッシュに加担している)。(松本卓也)

RT かと言って「女性のファルス享楽」の領域が検討されるべきでないというはずはないのだが、やはりバックラッシュに向かいやすい傾向は確実にもっていると思う。それがなぜなのかを考えている。(松本卓也)

RT おそらくは、男/女の享楽における非対称性(≠権力の非対称性。むしろこっちが前者の非対称性を生む)が理解されていない。(松本卓也)

RT (訂正)「むしろこっちが前者の非対称性を生む」、変な表現だったが、「享楽の非対称性が権力の非対称性を生む」、ということ。(松本卓也)

RT 女性性の議論において重要なのは、(どちからしか選べない男性とは違って)「女性はファルス享楽と他の享楽の2つの可能性がある」ということであって、ファルス享楽に自発的に従う”こともできる”が、常にそうではない可能性を確保すること。(松本卓也)

RT そのオルタナティヴの可能性が十分に確保された上ではじめて、ファルス享楽を自分のものとして生きることもそれを擁護することもできるだろう(そして、その可能性を確保することができるということが享楽の「エンパワメント」ではないか)。(松本卓也)

RTフェミニストたち、あるいはセクシストではない臨床家たちは享楽のエンパワメントをしてきたと考えてみるとどうか。柴田英里タイプの言説は、オルタナティヴの可能性を潰し、”そうするしかなかった”ファルス享楽それだけを擁護しようとしているように見える(あるいは、その方向に働く)からだろう。

RT 付け加えると、所謂「弱者男性」論者の根源にあるのは、「2つの享楽をもつ可能性をもつ女性たちに比べて、1つの享楽しか選べない俺たち男性は弱者である」ということなので、女性における享楽のエンパワメントに対する「弱者男性」の反感は、「一億総精神分析済み」にでもならないと終わらない。

RT また、所謂「弱者男性」の議論、そういう生き辛さにこそ精神分析が機能するところでもあるだろう。少なくとも『享楽社会論』の第3章の議論からはこう言えると思う(結局、宣伝)。(松本卓也)



こういった議論自体、無意味というつもりはないが(とくに社会学的に)、あくまで二次的な享楽をめぐっており、女性の享楽とは身体の出来事の享楽(固着の享楽)であり、男女両性にある享楽自体である。つまりフロイトの欲動と厳密に等価である。

※なおジャック=アラン・ミレールは、この二次的なレベルでの性別化の式をめぐる享楽の注釈を1999年にしている。➡︎
 「パロール享楽という被愛妄想的享楽

………………


◼️補足

「ラカンの享楽は厳密にフロイトの欲動」としたことについて補っておこう。


欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance](J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


このジャック=アラン・ミレールが言っていることは、次の二文がそれを示している。

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)


享楽=穴=欲動である。穴の機能とはトラウマの機能、身体のトラウマの機能である。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


ラカンはこの欲動の身体としてのトラウマを異者としての身体としている。

われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](Lacan,

S23,11 Mai 1976)


これはフロイトの定義通りである。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


あるいは、ーー

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。

Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


つまり享楽はトラウマとは、「享楽は異者としての身体」、あるいは「享楽はエスの欲動蠢動」であり、簡単に言えば、享楽は欲動である。


エスの欲動蠢動としての異者身体は固着の残滓(エスへの置き残し)による原無意識である。

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


現実界の享楽が固着と定義されるのはこれゆえである[参照]。