2022年9月16日金曜日

性別化の式における女性の享楽の内実の変遷




この二つの図は男性はファルスという例外があるゆえに全体化するが、女性はファルスの例外がないゆえに非全体であり、そこに女性の享楽が現れるという意味である(例外があれば象徴的システム全体としては安定する。例外がないと象徴的システムの裂け目にリアルが現れるという思考である)。さらに男性の式は[$ ◊ a] の一つの形式のみ、だが女性の式は[Lⱥ ◊ Φ]と[Lⱥ ◊ S(Ⱥ)]の二つの形式があることが示されている。

男性のほうの[a]は小さなファルス(フェティッシュ)、女性のほうの[Φ]は大きなファルス(象徴的ファルス)であり、事実上言語である。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ] (ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)



さらにLⱥ ◊ Φ]はパロール享楽とも言い換えうる。


ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で。jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. (J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlantpar 、2014)




他方、[Lⱥ ◊ S(Ⱥ)]としての女性の享楽S(Ⱥ)はセミネールⅩⅨとⅩⅩのラカンの定義において身体の享楽[jouissance du corps]である。

非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽[autre jouissance]を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。[… cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine ](LACAN, S19, 03 Mars 1972)

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体) [pas « tout » ]のだから、どうして女でないすべてが男だというのか?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (Lacan, S19, 10 Mai 1972)

女性はファルス関数のなかに十全にいる。しかし何かそれは以上のものがあるのだ[ce phallus …elle y est à plein, mais y'a quelque chose en plus…]〔・・・〕

ひとつの享楽がある…身体の享楽…ファルスの彼岸、キュートじゃないか!女性解放運動(MLF)にもうひとつの一貫性を提供するだろう(笑) …ああ、ファルスの彼岸の享楽!

[il y a une jouissance…, jouissance du corps …Au-delà du phallus, ça serait mignon ça - hein ? - et puis ça donnerait une autre consistance au MLF. [Rires]   …une jouissance au-delà du phallus, hein ! ](Lacan, S20, 20 Février 1973)

S(Ⱥ) にて示しているものは「斜線を引かれた女性の享楽」に他ならない。たしかにこの理由で、私は指摘するが、神はいまだ退出していないのだ。[S(Ⱥ) je n'en désigne  rien d'autre que la jouissance de L Femme, c'est bien assurément parce que c'est là que je pointe que Dieu n'a pas encore fait son exit. ](Lacan, S20, 13 Mars 1973)



S(Ⱥ)のȺとは、現実界の穴=トラウマを示す記号であり、S(Ⱥ)はこの穴のシニフィアンである。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

大他者のなかの穴のシニフィアンをS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)


先に女性の享楽[la jouissance de L Femme]は身体の享楽[la jouissance du corps ]であることを示したが、ラカンは身体は穴だと言うようになる。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


したがって女性の享楽は「身体の穴の享楽」とすることができる。ラカンがサントームのセミネールⅩⅩⅢで示している[J (Ⱥ)]という記号、これが女性の享楽=身体の穴の享楽のことであり、現代ラカン派ではシンプルに穴の享楽[la jouissance du trou]と呼ばれることが多い。




後年のラカンにとっての女性の享楽のポジションは、この想像界(I)と現実界(R)の重なり目にあるのである。この場は欲動のポジションでもある。



享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある。configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.   (Lacan, S16, 12 Mars 1969)

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)


したがってジャック=アラン・ミレールはS(Ⱥ)を欲動のシンボルだと定義している。


斜線を引かれた大他者のシニフィアンS (Ⱥ)ーー、私は信じている、あなた方に向けてこのシンボルを判読するために、すでに過去に最善を尽くしてきたと。S (Ⱥ)というこのシンボルは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたものである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]ーーJe crois avoir déjà fait mon possible jadis pour déchiffrer pour vous ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne ](J.-A, Miller,  LE LIEU ET LE LIEN,  6 juin 2001)


この意味で女性の享楽は、純粋に男女両性にある欲動、つまり享楽自体のことである。

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)

確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



もっとも女性の享楽が享楽自体に一般化されたと言っても、セミネールⅩⅩ「アンコール」の思考が無効化されたわけではない。あくまで二次的なものとなっただけである。


例えば、先に示した男性の式は[$ ◊ a] の一つの形式のみ、女性の式は[Lⱥ ◊ Φ]と[Lⱥ ◊ S(Ⱥ)]の二つの形式とは大いに示唆溢れる区分である。これは女性は男性以上に欲動的享楽の審級にあると同時に男性以上に言語の享楽(パロール享楽)に耽溺するということを示している。男性は少なくとも性関係においてフェティッシュ(a)の一択である。


……………………



最後に、性別化の式の思考ととても近似している、女は「思考する肉体」かつ「肉体なき思考」とする安吾の文を掲げておこう。


素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。   (坂口安吾「女体」1946年)

女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年) 



いくつかのラカン派及びラカン自身の文も参考に付記しておく。


一見、女は自然・欲動・身体等を表し、男は文化・象徴的(言語的)・精神等を表しているようにみえる。だがこれは、日々の経験によっても、臨床実践によっても立証されない。


女性のエロティシズムと女性のアイデンティティは、男性よりもはるかにずっと象徴的なもの(言語的なもの)に引きつけられているように見える。聖書からであろうそうでなかろうと、女はおおむね、耳で考え言葉で誘惑される。


反対に、言語に媒介されない、身体的欲動に支配されたセクシャリティは、ゲイであろうとストレイトであろうと、はるかにずっと男性のエロティシズムの特徴にみえる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004年)

ヒステリーにおけるエディプスコンプレクス…何よりもまずヒステリーは過剰なファルス化を「選択」する、ヴァギナについての不安のせいで[the Oedipus complex in hysteria,…that hysteria first of all 'opts' for this over-phallicisation because of an anxiety about the vagina. ](PAUL VERHAEGHE,  DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


ファルスになるためにーーつまり大他者の欲望の対象になるためにーー、女は女性性の本質的部分を拒否する。つまり女性性のすべての属性を拒絶して仮装のなかに隠す。女は、彼女でないもののために、愛されると同時に欲望されることを期待する。C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée. (ラカン 「ファルスの意味作用」E694、1958年)

この1958年のテキストは、女性性に関するラカンのポジションを教えてくれる。このテキストは、今ではセミネール20「アンコール」に比べ、しばしば見逃されている。だがラカンのその後の展開の胚芽的起源を含んでいる。


このテキストが示しているのはーー、


①女はファルスではない。だが女は、欲望のシニフィアン、大他者にとってのファルスになることを欲望することである。ここに現れているのは、女の女自身に対する他者性の命題である。女は自らを大他者に欲望のシニフィアンに転化させる。というのは大他者はファルスを欲望するから。That a woman is not the phallus but desires to be the phallus for an Other as a signifier of his desire. Here appears the theme of woman's otherness with regard to herself: she turns herself into the signifier of the Other's desire. For the Other desires the phallus.(…)


②仮装は存在の原欠如の上に構築されている。女性の仮装によって拒絶される女性性の本質的部分は何か。最初の接近法としてこう言おう。拒絶される女性性の本質部分は女性器である。女は女性器(肉体的裂目)をヴェールする。そして身体の他の部分を見せびらかす。

The masquerade is built on this primordial lack in being. What is the essential part of her femininity that is rejected? Let us say it in a first approach: it is the sexual organ. She veils the sexual organ (the anatomical gap), whereas she displays other parts of her body. (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010)



女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! ](Lacan、S18, 20 Janvier 1971)


ここでの見せかけとはフェティッシュのことだが、女性がフェティッシュであるというのではなく、主に男性に対してフェティッシュを装う(名高い「女性の仮装」)ということである。ーー《女性は自らが持っていないものの代わりにファルスを装う。つまり対象a、あるいはとても小さなフェティッシュ  (φ) を装う。[elle ne peut prendre le phallus que pour  ce qu'il n'est pas, c'est-à-dire : soit petit(a) , l'objet,  soit son trop petit (φ) ]》(ラカン, S10, 5 Juin 1963)、《(現実界の対象aと異なる)対象aは、フェティッシュとしての見せかけである [l'objet petit a …est un semblant comme le fétiche]である。》(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)



真の女は常にメデューサである[une vraie femme, c'est toujours Médée. ](J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首は女性器を代表象する[das Medusenhaupt die Darstellung des weiblichen Genitales ersetzt, ](フロイト『メデューサの首』(1940 [1922])


『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身のイルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé  « la tête de MÉDUSE »]。あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti,   ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955)




フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté.  ](Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)