2022年9月23日金曜日

ナショナリズムは戦争である!

 

戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収) 



ナショナリズムは戦争である!(フランソワ・ミッテラン演説、1975年1月17日)

Le nationalisme, c'est la guerre !   François Mitterrand, 17 janvier 1995

私の話を辛抱強く聞いてくれたことに感謝します。そして、最後に個人的なことを少し述べさせていただきます。偶然にも、私は第一次世界大戦中に生まれ、第二次世界大戦を戦ったのです。だから私は、家族がバラバラになり、全員が死者を悼み、前夜の敵、伝統的な敵に対して恨み、時には憎しみを抱いている雰囲気の中で子供時代を過ごした。しかし、皆さん、私たちは、世紀から世紀へ、伝統は常に変化しているのです。フランスは、デンマークを除くヨーロッパのすべての国と戦ってきたということは、すでにお話しする機会がありましたね。なぜなのでしょう?

Je vous remercie pour la patience et l’attention avec lesquelles vous avez bien voulu m’écouter. Et je terminerai par quelques mots qui seront plus personnels. Il se trouve que les hasards de la vie ont voulu que je naisse pendant la Première Guerre mondiale et que je fasse la Seconde. J’ai donc vécu mon enfance dans l’ambiance de familles déchirées, qui toutes, pleuraient des morts et qui entretenaient une rancune et puis parfois une haine contre l’ennemi de la veille, l’ennemi traditionnel. Mais, Mesdames et Messieurs, nous avons, nous en avons changé de siècle en siècle, les traditions ont changé toujours. J’ai déjà eu l’occasion de vous dire que la France a, avait combattu tous les pays d’Europe, je crois, à l’exception du Danemark. On se demande pourquoi ?


しかし、私の世代は終わりを迎え、これが最後の行動となります。これが私の最後の公の場での活動です。だから、絶対に通らなければならないのです。あなた方自身、そしてあなた方の多くは、父祖の教えを守り、それぞれの国の傷を経験し、悲しみ、別れの痛み、死の存在を知っています。それは、単にヨーロッパの人々の間の敵対関係のためです。私たちは、この憎しみではなく、逆に、1944年、1945年から、自ら血まみれになり、私生活を引き裂かれながら、和解と平和に基づく明るい未来を思い描く大胆さを持った人々に、和解の機会を与えなければならないと言わなければならないのです。それが、私たちのやってきたことです。ああ...

Mais ma génération achève son cours, ce sont ses derniers actes. C’est l’un de mes derniers actes publics. Il faut donc absolument transmettre. Vous avez, vous-mêmes, vous êtes nombreux à garder l’enseignement de vos pères, à avoir éprouvé les blessures de vos pays, à avoir connu le chagrin, la douleur des séparations, la présence de la mort tout simplement par l’inimitié des hommes d’Europe entre eux. Il faut transmettre, non pas cette haine mais au contraire, la chance des réconciliations que nous devons, il faut le dire, à ceux qui, dès 1944, 1945, eux-mêmes ensanglantés, déchirés dans leur vie personnelle, le plus souvent, ont eu l’audace de concevoir ce que pourrait être un avenir plus radieux qui serait fondé sur la réconciliation et sur la paix. C’est ce que nous avons fait. Alors…


私は、自分の信念を、たまたま、ドイツの収容所や、皆さんのように占領された国で身につけたのではありません。しかし、人道と博愛の美徳が実践されている家庭で、同じように、ドイツ人のことを話すときは、敵意をもって話していたことを覚えています。そして、捕虜になったとき、脱走したとき、つまり脱走の過程でドイツ人と出会い、バーデン・ヴュルテンベルク州の刑務所にしばらく住んでいました。そこにいた人たち、私が話したドイツ人たちは、私たちがドイツを好きであるよりも、彼らがフランスを好きであることに気づいたのです。私は、自分の国を非難したいわけではなく、最も愛国主義的とは言い難いのですが、誰もが自分のいる場所から世界を見ていたことを理解してもらうために言っているのです。そしてこの見方は、概して歪んでいました。私たちはこれらの偏見を克服しなければなりません。私がここでお願いしていることはほとんど不可能です。なぜなら、私たちは歴史を克服しなければならず、なおかつ克服しなければ、掟が課されることを、皆さんは知らなければならないからです。ナショナリズムは戦争なのです!

Je n’ai pas acquis ma propre conviction comme ça, par hasard, je ne l’ai pas acquise dans les, dans les camps allemands où j’étais prisonnier, ou dans un pays qui était lui-même occupé comme beaucoup d’entre vous. Mais je me souviens que dans une famille où l’on pratiquait des vertus d’humanité et de bienveillance, tout de même, lorsqu’on parlait des Allemands, on en parlait avec animosité. Et je me suis rendu compte lorsque j’étais prisonnier de guerre, évadé, c’est-à-dire en état de m’évader, en cours d’évasion, j’ai rencontré des Allemands et puis j’ai vécu quelques temps en Bade-Wurtemberg dans une prison. Et les gens qui étaient là, les Allemands avec lesquels je parlais, je me suis aperçu qu’ils aimaient mieux la France que nous n’aimions l’Allemagne. Je dis cela sans vouloir accabler mon pays qui n’est pas le plus nationaliste, loin de là, mais pour vous faire comprendre que chacun a vu le monde de l’endroit où il se trouvait. Et ce point de vue était généralement déformant. Il faut vaincre ces préjugés, ce que je vous demande là est presque impossible car il faut vaincre notre histoire et pourtant, si on ne la vainc pas, il faut savoir qu’une règle s’imposera, Mesdames et Messieurs. Le nationalisme c’est la guerre !


戦争はたんに過去のものではなく、私たちの未来にもなり得るのです。そして、私たちは、皆さんは、今、私たちの平和と安全、そしてその未来の後見人なのです。ご清聴ありがとう。

La guerre, ce n’est pas seulement le passé, cela peut être notre avenir. Et c’est nous, c’est vous, Mesdames et Messieurs les députés, qui êtes désormais les gardiens de notre paix, de notre sécurité et de cet avenir, merci.



ミッテランはいいこと言ってるが、とはいえもっと遡って民族国家(国民国家)も反省したほうがよかったんじゃないかね。



民族国家とはフランス革命が発明したものである。まず民族という概念を発明して、国内では徴兵制による常備軍、税制による政府官僚制、司法制度による法の支配、国外には大使館、公使館、領事館をはりめぐらし、国際条約を承認し遵守し利用し、紛争解決の手段としての外交の延長としての戦争を行う。こういうものでないと国家として相手にしないぞという強制が二百年前に成立し、民族国家システムに加入するか、植民地として編入されるかという二者択一をイギリスをはじめとする西欧「列強」が迫ったのが、十九世紀の特徴である。 東地中海と東アジアの比較的周辺部にいた国家はまがりなりに民族国家を作ろうとした。ギリシャ、タイ、エチオピア、日本くらいだろうか。「鹿鳴館文化」などはいたいけな努力である。いっぽう、大清帝国、インド・ムガール帝国、オットマン・トルコなど、衰退する多民族帝国は非常に混乱した。民族国家の体裁を作っても、うまく機能しない。常備軍というものは単一民族の神話を必要とするのだろうか。結局、民族国家およびその植民地というシーツで世界はほぼ被われるのだが、「戦争の巣」となった部分は民族国家で被うのに成功しなかった部分であることがわかる。(中井久夫「1990年の世界を考える」1990年『精神科医がものを書くとき』所収)


戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからとなく生まれるあたりから始まる。そして戦争の不可避性と自国の被害者性を強調するところへと徐々に高まってゆく。実際は、後になってみれば不可避的どころか選択肢がいくつも見え、被害者性はせいぜいがお互い様なのである。しかし、そういう冷静な見方の多くは後知恵である。  


選択肢が他になく、一本道を不可避的に歩むしかないと信じるようになるのは民衆だけではない。指導者内部でも不可避論が主流を占めるようになってくる。一種の自家中毒、自己催眠である。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収)



……………


◼️ナショナリズムの萎びた想像力が、なぜこんな途方もない犠牲を生み出すのか


ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属 nationality〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。

そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ]

これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。These deaths bring us abruptly face to face with the central problem posed by nationalism: what makes the shrunken imaginings of recent history (scarcely more than two centuries) generate such colossal sacrifices? I believe that the beginnings of an answer lie in the cultural roots of nationalism. 

(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年)




◼️ナショナリズムの自己愛的性格による異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種

ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまり自己愛的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相異にもとづく。

このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。[die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird. ]

文化理想が与えるこの自己愛的な満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある「Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。

つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)




◼️オスマン帝国のパリ駐在大使は、フランスの国民軍が「国」のために自ら進んで死んでいくということに、たいへんな驚きを感じた

民族の問題にとっては、ナショナリズムが大きな手掛かりになります。この民族やナショナリズムが、世界史の前面に現れてきたのは、1789年、フランス革命を契機としています。    


フランス革命以前の国家は、いわば王朝国家ですから、人々の忠誠心やアイデンティティ――自分たちはいったい何者であるのか、どういう存在なのかということを考える際の自分たちの帰属意識は、王朝あるいは王室等に寄せられていました。 

 

つまり、ブルボン朝フランスに属する人々は、まさに臣民と呼ばれ、かれらはブルボン朝王室に対する忠誠心を、自分たちのアイデンティティの帰属の拠り所にしていた。ハプスブルグ朝のオーストリア帝国の人々も同様で、王朝や王室への帰属なのであって、国家に対する帰属意識は、たいへん希薄であったのです。たとえば、フランスであの『ラ・マルセイエーズ』という歌が作られ、三色旗がうち振られて、パトリ―いわゆる「祖国」という言葉が市民権を得たのは、フランスが共和国という形態になってからです。  


つまり、フランス人が自分たちがフランス国民であると意識し、国民国家なのだという認識を持つようになってからです。いわば王朝や帝国に代わって、国民国家を支える民族意識やナショナリズムが、強く前面に出てくるようになったのです。 


これを象徴するのが軍隊の変貌で、それまでヨーロッパは多くの戦争を経験しておりましたが、基本的には傭兵を中心にした軍同士が戦いました。従って、傭兵同士の職業人としての互いの共通の理解は暗黙の諒解、日本風に言うならば一種の談合によって、この辺で手を打とうということになる。  


傭兵隊長も被害を出すのは嫌ですから、大規模な戦争には発展しない。いわば儀式としての戦争行為が、近世に至るまでヨーロッパ史の1つの特徴でした。 

  

ところが、フランス革命後になると、戦争の仕方そのものに大きな変化が生じます。フランス民族のため、あるいは国家のため、無私の貢献、忠誠心を尽くす国民軍が成立して、かれらは共和国のために死んでいく。お金ももらわず、戦争で自分たちが自ら進んで死ぬということは、それまで有り得なかったことです。  


ですから、当時オスマン帝国のパリ駐在大使は、フランスの国民軍が「国」のために自ら進んで死んでいくということに、たいへんな驚きを感じたわけです。しかも国は、傷痍軍人に対してケアをしていくという形で、愛国心をナショナリズムに結び付けていく試みもなされているのです。これもフランス革命を契機として現れた現象です。(山内昌之「いま、なぜ民族なのか?」1993年ーー学士会講演特集号)