2022年9月6日火曜日

十川幸司と立木康介の反フロイト・反ラカン的発言


ナルシシズムあるいは自体性愛文献Ω」にて、フロイトのナルシシズムは原ナルシシズム[primären Narzissmus]と二次ナルシシズム[sekundärer Narzissmus]があり、前者は自体性愛[Autoerotismus]、後者は自己愛[Selbstliebe]であることを示した。




この区分は現在に至るまで、フロイトラカンの研究者のあいだでさえ、鮮明化されていない。


例えば、「日本を代表するフロイト学者」であるだろう十川幸司の『フロイディアン・ステップ』刊行に伴っての立木康介との対談ーー彼は現在、「日本ラカン協会理事長」であるーーにて、二人はこう言っている。


立木  ナルシシズムとは、外部の対象に向けていた欲望のリビードを、対象に拒絶されたり、対象を失ったときに、自我に引き上げることで、自我のうちに興奮の刺激量が増加する状態のことで す。とすれば、これは必然的に不調和で不快な経験であると。目の覚めるような、痛快なメッセージでした。


十川  ナルシシズムは、精神分析固有の領域を超えて濫用されている概念ですが、大部分はフロイトが作り出した概念とは無関係な形で使われています。フロイトは、あくまでナルシシズムをリビードの量の問題として考えていたわけで、単純な心理学的発想に基づくものではありません。日本語だと自己愛と訳されていますが、ナルシシズムは「自己」とも「愛」とも直接の関係はありません。この概念は極めて便利なので、病理の本質とは無関係に応用されてしまう。ナルシシズムは倒錯の問題であり、自我と欲動の病理です。ナルシシズムは人に快を与えるのではなく、不安や不快をもたらすという点を、明確にしておく必要があります。 (対談=十川幸司×立木康介「フロイトはいまだ読まれてはいない 」--『フロイディアン・ステップ』刊行記念対談、2020年1月)



これは明らかにmisleading な発言であり、ナルシシズムの原点にある原ナルシシズム=自体性愛が欲動の病理であることは正しいにしろ、二次ナルシシズムは、前回掲げたフロイトが示しているように自己と愛に大いに関係がある。


われわれはナルシシズム原理について一つの重要な展開をなしうる。原初において、リビドーはエスのなかに蓄積され[Libido im Es angehäuft]、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給に送り、次に強化された自我はこの対象リビドー[Objektlibido]をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象にしようとする。このように自我のナルシシズムは二次的なものである[Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer ]である。すなわち対象から撤退したものである。

An der Lehre vom Narzißmus wäre nun eine wichtige Ausgestaltung vorzunehmen. Zu Uranfang ist alle Libido im Es angehäuft, während das Ich noch in der Bildung begriffen oder schwächlich ist. Das Es sendet einen Teil dieser Libido auf erotische Objektbesetzungen aus, worauf das erstarkte Ich sich dieser Objektlibido zu bemächtigen und sich dem Es als Liebesobjekt aufzudrängen sucht. Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer, den Objekten entzogener. (フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

エディプスコンプレクスにおいては、リビドーは両親の表象と結びついて現われるが、それ以前にはリビドーはそのような対象をもたない。これは、リビドー理論の基本的コンセプトの元となる状態であり、リビドーは自我自体をその対象とするのである[die Libido das eigene Ich erfüllt, dieses selbst zum Objekt genommen hat]。この状態をナルシシズムあるいは自己愛と呼びうる [Diesen Zustand konnte man »Narzißmus« oder Selbstliebe nennen]。この状態は完全には放棄されず、一生の間、自我は大いなるリビドー貯蔵庫のままであり、そこから対象備給に送り出されたり、ふたたび対象から引き上げられたりする。このようにしてナルシシズム的リビドーは常時、対象リビドーに移行したり逆転したりする。

Im Ödipuskomplex zeigte sich die Libido an die Vorstellung der elterlichen Personen gebunden. Aber es hatte vorher eine Zeit ohne alle solche Objekte gegeben. Daraus ergab sich die für eine Libidotheorie grundlegende Konzeption eines Zustandes, in dem die Libido das eigene Ich erfüllt, dieses selbst zum Objekt genommen hat. Diesen Zustand konnte man »Narzißmus« oder Selbstliebe nennen. Die nächsten Überlegungen sagten, daß er eigentlich nie völlig aufgehoben wird; für die ganze Lebenszeit bleibt das Ich das große Libidoreservoir, aus welchem Objektbesetzungen ausgeschickt werden, in welches die Libido von den Objekten wieder zurückströmen kann. Narzißtische Libido setzt sich also fortwährend in Objektlibido um und umgekehrt. (フロイト『自己を語るSelbstdarstellung 』1925年)



十川幸司と立木康介は、原ナルシシズムと二次ナルシシズムの区別を鮮明化せずにナルシシズムを語ってしまっているのである。


どういう訳であのように語ってしまったのかいざ知らず、あの発言自体だけを取り上げれば、二人は反フロイト・反ラカンである。


われわれは、女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである[Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.](フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


愛することは、本質的に、愛されたいということである[l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. ](ラカン、S11, 17 Juin 1964)

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである。[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,… l'amour c'est le narcissisme]  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

愛はその本質においてナルシシズム的である[l'amour dans son essence est narcissique] (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)



原ナルシシズム的リビドー(自体性愛的欲動)は、前回示したように、ラカンの享楽である。ラカンが上で言っているナルシシズムはこの享楽に対する防衛(穴埋め)としてのイマジネールな愛である。



享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



愛には三相がある。象徴界的相、想像界的相、現実界的相である。Les trois dimensions de l'amour :  La dimension symbolique, La dimension imaginaire, La dimension réelle

①欲望の相:愛される対象はファルスの意味作用をもつ(象徴界)

②愛の要求の相:愛することは、愛されることを要求する(想像界)

③愛が享楽・欲動と関係する相(現実界)


– la dimension du désir : l'objet aimé doit avoir la signification du phallus 

– la dimension amour demande : aimer, c'est demander d'être aimé 

– la dimension où l'amour est corrélé à la jouissance, à la pulsion.

(Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR, 2016)




そもそも欲動自体が愛に関わらない筈がないのである。


リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー [Energie solcher Triebe] をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。

Libido ist ein Ausdruck aus der Affektivitätslehre. Wir heißen so die als quantitative Größe betrachtete ― wenn auch derzeit nicht meßbare ― Energie solcher Triebe, welche mit all dem zu tun haben, was man als Liebe zusammenfassen kann. 〔・・・〕

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。

 Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性的欲動[Sexualtriebe]と名づける。

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと呼ぶ。die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)