私の恐ろしい女主人 [meiner furchtbaren Herrin] |
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何事がわたしに起こったのか、わたしの友人たちよ。君たちの見るとおりだ。わたしは心乱れ、追い立てられ、心ならずもそれに従って、立ち去ろうとしているーーああ、君たちから立ち去ろうとしているのだ。 |
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そうだ、もう一度ツァラトゥストラは自分の孤独へ帰らなければならないのだ。しかし今度はこの熊はいやいやながらおのれの洞窟へ帰ってゆくのだ。 |
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何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人 [meine zornige Herrin]が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。 |
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きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。 Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin. |
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それからの次第はこうであるーーわたしは君たちに一切を話さなければならない、君たちの心が、突然に去ってゆく者にたいして冷酷になることがないように。ー 君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。ーー |
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足の指の先までかれは驚得する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。 このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ、夢がはじまった。 |
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針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。ーーいままでにこのような静けさにとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚得したのだ。 そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` - |
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このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。 |
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と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` - |
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それでわたしはついに反抗する者のような声音で答えた。「そうだ。わたしはエスを知ってる。しかしわたしはエスを語ることを欲しないのだ」 Und ich antwortete endlich gleich einem Trotzigen: `Ja, ich weiss es, aber ich will es nicht reden!` |
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と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった。「欲しないというのか、ツァラトゥストラよ。そのことも真実か。反抗のなかに身をかくしてはならない」ーー Da sprach es wieder ohne Stimme zu mir: `Du _willst_ nicht, Zarathustra? Ist diess auch wahr? Verstecke dich nicht in deinen Trotz!` - |
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このことばを聞いて、わたしは幼子のように泣き、身をふるわした。そして言った。「ああ、わたしはたしかにエスを言おうとした。しかし、どうしてわたしにそれができよう。そのことだけは許してくれ。エスはわたしの力を超えたことなのだ」 Und ich weinte und zitterte wie ein Kind und sprach: `Ach, ich wollte schon, aber wie kann ich es! Erlass mir diess nur! Es ist über meine Kraft!` |
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と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった。「おまえの一身が問題なのではない、ツァラトゥストラよ。おまえのことばを語れ、そして砕けよ」 |
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それでわたしは答えた。「ああ、それはわたしのことばだろうか。このわたしが何者だろう。わたしはより価値ある者を待っているのだ。わたしはその者の前に出て砕けるだけの値打ちもない身だ」 |
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と、ふたたび声なくしてわたしに語りかけられることばがあった。「おまえの身の成り行きが問題なのではない。おまえはわたしの目には、まだ十分に謙遜ではない。謙遜はもっとも堅い皮をもつものだ」 |
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それでわたしは答えた。「わたしの謙遜の皮は、これまでにあらゆるものを忍んできたではないか。わたしはわたしの高山の麓に住んでいる。その頂がどのくらい高いか、わたしは知らない。だれもそれをわたしに言ってくれた者がないから。しかし、わたしはわたしの谷がどんなに深いかは、よく知っている」 と、ふたたびわたしにむかって声なき声は語りかけた。「おお、ツァラトゥストラよ、山を動かそうとする者は、谷と低地をも動かすのだ」 |
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それでわたしは答えた。「まだわたしのことばは山を動かしたことがない。またわたしの語ったことは人間たちに到達することもなかった。なるほどわたしは人間たちに近づいて行った。しかしわたしはまだ人間たちへ行き着いていないのだ」 |
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と、ふたたび声なき声はわたしに言った。「おまえはそれについて何を知ろう。露は、夜が最も深い沈黙にはいったときに、草におりるではないか」ーー Da sprach es wieder ohne Stimme zu mir: `Was weisst du _davon_! Der Thau fällt auf das Gras, wenn die Nacht am verschwiegensten ist.` - |
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それでわたしは答えた。「かれら人間たちは、わたしがわたし自身の道を見いだして、それを歩んで行ったとき、わたしを嘲笑した。そして実際わたしの足はそのとき慄えたのだ。 するとかれらはわたしに言った。おまえは正しい道を忘れた。 いまは慄えて、歩むことも忘れようとしているのだなと」 |
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と、ふたたびあの声はわたしにむかって言った。「かれらの嘲笑がなんであろう。おまえは服従することを忘れた者の一人だ。いまおまえは命令しなければならない。 おまえは知らないのか、いかなる者が万人に最も必要であるかを。最も必要なのは、偉大なことを命令する者だ。 |
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偉大なことをしとげるのは、困難だ。しかしより困難なのは、偉大なことを命令することだ。 おまえの最も許しがたい点はこれだ。おまえは力をもっている、しかもおまえは支配しようとしない」 ーー それでわたしは答えた。「わたしには命令するための獅子の声が欠けている」 |
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と、ふたたびささやくようにわたしに語りかけるものがあった。「嵐をもたらすものは、もっとも静かな言葉だ。鳩の足[Taubenfüssen]で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。 Da sprach es wieder wie ein Flüstern zu mir: `Die stillsten Worte sind es, welche den Sturm bringen. Gedanken, die mit Taubenfüssen kommen, lenken die Welt. |
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おお、ツァラトゥストラよ、おまえは、来たらざるをえない者の影として歩まねばならぬ。それゆえおまえは命令しなければならぬ。命令しながら先駆しなければならぬ」 Oh Zarathustra, du sollst gehen als ein Schatten dessen, was kommen muss: so wirst du befehlen und befehlend vorangehen.` - |
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わたしは答えた。「わたしは差恥を感ずる」と。 と、ふたたび声のない声はわたしにむかって語りかけた。「おまえはこれから幼子になれ、そして羞恥の思いを放棄しなければならない。 |
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青年期の誇らしさがまだおまえを離れない。おまえは青年になることがおそかったのだ。しかし幼子になろうとする者は、おのれの青年期をも乗り超えなければならぬ」ーー それでわたしは長いあいだ思いに沈んだ。そしてわたしはふるえた。だが、ついにわたしは言った。それはわたしが最初に言ったあのことばだ。「わたしは欲しない」 |
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と、わたしのまわりに笑い声が起こった。ああ、なんとその笑い声がわたしの腸をかきむしり、わたしの心臓をずたずたにしたことだろう。 Da geschah ein Lachen um mich. Wehe, wie diess Lachen mir die Eingeweide zerriss und das Herz aufschlitzte! |
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すると、あの声はこれを最後にわたしにむかって語りかけた。「おお、 ツァラトゥストラよ、おまえの果実は熟したのだ。だが、おまえはまだおまえの果実にふさわしく熟していない。 Und es sprach zum letzten Male zu mir: `Oh Zarathustra, deine Früchte sind reif, aber du bist nicht reif für deine Früchte! |
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それゆえおまえは孤独のなかにもどってゆかねばならぬ、おまえはいっそう熱して美味にならねばならぬのだ」ーー So musst du wieder in die Einsamkeit: denn du sollst noch mürbe werden.` - |
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そしてもう一度笑い声が起こり、それは遠ざかって行った。もとに倍する静けさがわたしをつつんだ。わたしは地に伏したままだった。汗が五体から噴き出した。 Und wieder lachte es und floh: dann wurde es stille um mich wie mit einer zwiefachen Stille. Ich aber lag am Boden, und der Schweiss floss mir von den Gliedern. |
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ーーわしの友人たちよ、これで君たちは一切を聞いたのだ。また、なぜわたしがわたしの孤独に帰らねばならぬかをも、聞き知ったのだ。わたしは何事をもつつみかくすことはしなかった。 |
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同時に、君たちはわたしから次のことをも聞いたのだ、すべての人間のうちでだれが最も沈黙する者であるかーーまた最も沈黙する者であろうと欲するかを。 Aber auch diess hörtet ihr von mir, _wer_ immer noch aller Menschen Verschwiegenster ist - und es sein will! |
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ああ、わたしの友人たちよ。わたしは君たちになお言うべきことをもっているのだ。君たちになお与えるべきものをもっているのだ。だが、なぜ、わたしはそれを与えないのか。わたしは吝嗇なのだろうか。ーー |
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ツァラトゥストラがこのことばを言い終えたとき、激しい苦痛がかれを襲った。そして友人たちとの別れの迫ったことが、かれを悲しませた。ツァラトゥストラは声を放って泣いた。だれひとりかれを慰めることばをもたなかった。その夜、友人たちをあとに残して、かれはひとり去った。 |
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(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)
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ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten. 〔・・・〕 私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。 Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es. |
グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。[Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist](フロイト『自我とエス』第2章、1923年) |
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※参考
◼️モノ=母なるモノ=異者=不気味なもの=現実界=エスの欲動蠢動 |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
◼️モノ=享楽の対象=喪われた母=エス |
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
モノは母である。das Ding, qui est la mère(Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
私の恐ろしい女主人[meiner furchtbaren Herrin]
≒母なるモノ[la Chose maternelle]?