定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair.] (LACAN, L'étourdit, AE467, le 14 juillet 72)
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ラカンの異性愛[hétérosexuel]における "hétéro"とは異者[étrangère]である。
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ヘテロは異者である[hétéro …est étrangère](LACAN, CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME, 1975)
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ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978)
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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)
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以上、定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性器を愛することである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime l'organe féminin, quel que soit son sexe propre.]・・・
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フロイトの「症例ドラ」には二つの夢がある。宝石箱[Schmuckkästchen]と深い森の奥のニンフ[die »Nymphen« im Hintergrunde des »dichten Waldes« ]の夢である。
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二つのドラの夢は、完全に透明である。われわれはこういう他ない、「女性器とは何なの?」 Les deux rêves de Dora sont absolument transparents. On ne parle que de cela : « Qu'est-ce qu'un organe féminin ? ». (Lacan, S3, 14 Mars 1956)
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ドラは自問し、「女とは何なの?」と問い彷徨ったとき、この問いの唯一の意味は、女性器自体を象徴化する試みである。Qu'est-ce qui se passe en effet quand Dora se trouve poser sa question, s'interroger sur « Qu'est-ce qu'une femme ? » Cela a le sens - et pas un autre - d'une interrogation, une tentative de symboliser l'organe féminin comme tel. (Lacan, S3, 21 Mars 1956)
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このフロイトラカンはごく当たり前のことを言っているのである。ほとんどの人が口にするのを避けているだけである。
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多くの学者が指摘しているが、西洋の究極の性のシンボル、ハートは、ヴァギナを表したものにほかならない。確かに生殖器が興奮し、自分の意志で陰唇が開いた状態にあるとき、ヴァギナの見える部分の輪郭は紛れもなくハートの形をしている。(キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史 』)
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恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)
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➡︎世界の起源(L'Origine du monde)あるいは「喪われた世界 (LE MONDE PERDU)」
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谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子『道徳経』第六章)
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谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子『道徳経』第六章「玄牝之門」福永光司訳)
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孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。(老子『道徳経』第二十一章)
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女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。(老子「道徳経」第二十一章、保立道久『現代語訳 老子』)
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