2022年9月15日木曜日

性別化の式はラカンの夢に過ぎない


 ◼️性別化の式のデフレと女性の享楽の意味合いの変化

ラカンの「女性の享楽」概念は、セミネールⅩⅩ「アンコール」以降、その意味合いがいささか変わるのだが、セミネールⅩⅨとセミネールⅩⅩでは、ラカンは次のように言っている。


非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽[autre jouissance]を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。[… cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine ](LACAN, S19, 03 Mars 1972)

男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は全てではない(非全体) [pas « tout » ]のだから、どうして女でないすべてが男だというのか?

Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (Lacan, S19, 10 Mai 1972)

女性はファルス関数のなかに十全にいる。しかし何かそれは以上のものがあるのだ[ce phallus …elle y est à plein, mais y'a quelque chose en plus…]〔・・・〕

ひとつの享楽がある…身体の享楽…ファルスの彼岸、キュートじゃないか!女性解放運動(MLF)にもうひとつの一貫性を提供するだろう(笑) …ああ、ファルスの彼岸の享楽!

[il y a une jouissance…, jouissance du corps …Au-delà du phallus, ça serait mignon ça - hein ? - et puis ça donnerait une autre consistance au MLF. [Rires]   …une jouissance au-delà du phallus, hein ! ](Lacan, S20, 20 Février 1973)


この三文から、まずは女性の享楽は身体の享楽であることがわかる。この女性の享楽が身体の享楽であることは後年まで変化はないにしろ、女性がファルス関数のなかに十全にあり、その非全体において身体の享楽が現れるという思考については変化がある。


ここではまずジャック=アラン・ミレールの説明を掲げる。

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ]〔・・・〕

性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[les formules de la sexuation…C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


①《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃》とあるが、最も簡単に言えば、《母なるララングのトラウマ的効果[L'effet traumatique de lalangue maternelle]》(Martine Menès, Ce qui nous affecte, 15 octobre 2011)のことである[参照]。

②法なき現実界は、セミネールⅩⅩⅢにある。


私は考えている、現実界は法なきものと言わねばならないと。真の現実界は秩序の不在である。現実界は無秩序である[je crois que le Réel est, il faut bien le dire, sans loi.  Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre].  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)     



③性別化の式は二次的結果、あるいは享楽を数学的論理あるいはファルス関数の記号のなかの檻に幽閉して為されたもの、これについてのミレールの説明は次のものである。

私には「ラカンの夢(Un rêve de Lacan)」(1999年)と表題づけた寄稿がある。何の夢か。私がラカンの夢として扱ったのは、精神分析を構造主義的言語学だけでなく、数学、特に数学的論理に結びつけようとした欲望だ[Je traitais comme un rêve de Lacan son désir d’associer la psychanalyse, non seulement à la linguistique structurale, mais aux mathématiques, et spécialement à la logique mathématique]。


この夢はラカンだけのものだっただろうか? いやそうではなかった。すべての世代、構造主義的世代、教師も生徒も同様に、同じ夢を信じた。〔・・・〕

事態を焦点化するためにラカンの夢を要約する定式を選び出そう。この定式はエクリの背表紙にあるテキストであり気づかれていない。そこにはこうある、《無意識は純粋論理から来る[l’inconscient relève du logique pur ]》と。〔・・・〕


当時の無意識の主体[Le sujet de l’inconscient]、斜線を引かれた文字$にて刻印された主体は、厳密に言って、身体がない[n’a pas de corps]。というのは、身体は純粋論理からは生まれないから[Car le corps ne relève pas du « logique pur ». ](J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016


このミレールを受け入れるなら、「性別化の式はラカンの夢だった」となる。これが「性別化の式は二次的結果」の内実であり、そこで示されている享楽は本来の享楽ではないということである。


もちろんミレールは上のように言うことにより、ラカン自身の次の発言を念頭にしている筈である、ーー《エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない[c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ]》( Lacan, S17, 11 Mars 1970)


さらにミレールは女性の享楽の意味合いの変化について次のように説明している。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。

だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


……………………



◼️ひとりの女は身体の出来事である


以下にアンコールセミネール以降、女性の享楽の意味合いがいかに変貌したのかを見てみよう。

ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! [« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme !] (Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome](Lacan, S23, 17 Février 1976)


この1975年1月と1976年2月の二文は同じ意味である。先に「ひとりの女は症状」とあるのは、ラカンが現実界の症状としての「サントーム」概念を初めて提出したのは1975年11月ゆえにである。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

サントームは現実界・無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient ]  (Lacan, S23, 17 Février 1976)



1974年11月と1975年に示された「症状」も現実界の症状サントームことである。


症状は刻印である。現実界の水準における刻印である[Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel. ](Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,  30 Nov 1974)

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)



ジャック=アラン・ミレールが女性の享楽を身体の出来事としたり、サントームを身体の出来事として定義しているのは、この文脈のなかにある。


純粋な身体の出来事としての女性の享楽[ la jouissance féminine qui est un pur événement de corps ](Miller, L'Être et l'Un、2/3/2011)

サントームは身体の出来事として定義される[ Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)


ラカン自身の発言に則っていえば、サントームとしての「ひとりの女は身体の出来事 une femme est un événement de corps」となる。



この身体の出来事は、フロイトの定義において、初期幼児期のトラウマ、トラウマへの固着という不変の個性刻印である。


病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


ほとんど注目されてこなかったこの『モーセ』の文はフロイトラカン理論においてひとつの核心である。「身体の出来事はトラウマへの固着と反復強迫」、これがラカンのサントームである。


フロイトにとってトラウマは固着自体であり、現代ラカン派では「トラウマの反復」あるいは「固着の反復」と簡潔にいう場合が多い。


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


「現実界=トラウマ=固着」であり、これが身体の出来事としての「ひとりの女」である。


初期幼児期に出会う身体の出来事としてのひとりの女が誰だかは人はみな知っている。乳幼児の身体の世話役である母もしくは乳母である。


女への固着[Fixierung an das Weib] (おおむね母への固着[meist an die Mutter])(フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)

母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird.] (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


人はみなーー男も女もともにーー女への隷属があるのである(女性が男性に比べてナルシシズム的な傾向が強い理由の主因はここにある)。


これが現実界の症状サントームとしての「ひとりの女は身体の出来事」の内実である。


…………………


◼️ラカンの現実界の享楽はフロイトの固着である


「ひとりの女としてのサントームは現実界の症状」とは、サントームは「現実界の享楽=身体の出来事=固着」ということである。


享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)



ラカンは現実界をフロイトのモノとしたが、これが享楽自体としてのサントームである。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)

サントームという享楽自体 [la jouissance propre du sinthome] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)


つまり、ひとりの女=享楽自体としてのサントームがモノの名とは、「サントームは母の名」「ひとりの女は母の名」ということである。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



ラカンの現実界の症状サントームをフロイト的にいえば、「人間の原症状は幼児期の世話役としての女への固着(主に母への固着)であり、この刻印が生涯居残り反復強迫する」となる。



……………



◼️道に迷ったラカン



なおモノの名としてのサントームは母の名であるとともに異者の名である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


フロイトの定義において異者(異者としての身体)ーー「異物」とも訳されてきたーーはトラウマであり、レミニサンスする。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



この異者がラカンの現実界の定義である。ーー《ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté.]》  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


さらにまた、異者は固着の残滓(エスへの置き残し)である。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は原無意識としてエスに置き残される[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



この固着の残滓としての異者がラカンのリアルな対象aであり、母かつ享楽であることはセミネールⅩにて既に示されているのである。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


対象a=残滓=異者=享楽=母=固着である。そしてこの残滓がフロイトのモノである、ーー《我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste]》(フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


したがってジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。


いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。

C'est disons un reste de jouissance. Et Lacan ne dit qu'une seule fois mais au fond ça suffit, d'où il s'en inspire chez Freud quand il dit au fond que ce dont il fait ici une fonction, ce sont des points de fixation de la libido. 〔・・・〕


固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.]  (J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne III-  5/05/2004)

残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


あるいは、《フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。〔・・・〕フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose]》(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


この意味でセミネールⅩにてラカンはフロイトの本質を既に掴んでいた。ジャック=アラン・ミレールが次のように「道に迷ったラカン」を仄めかしているのはこの文脈になかにあるのだろう。


セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!


そして私は自問した、ラカンはセミネールX 後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と[I said to myself that I might surely show that Lacan lost his way after Seminar X]

いや私はそんなことは言わない、それは私の考えていることではない。[But I don't say that, because that isn't what I think. ]〔・・・〕


ラカンはセミネールXXに引き続く諸セミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。この形式化はそれ以前の20年間のあいだ忍耐強く構成されたものであるが。…セミネールXXの後にラカンはセミネールXにてスケッチした視野をふたたび採用したのである。〔・・・〕


不安セミネールXにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション


「私はそんなことは言わない」と言いつつも、先に挙げた「ラカンの夢」等の発言と同時に読めば、事実上、「性別化の式は道に迷ったラカンの最後の姿」と暗示しているようにさえ読めないことはない。