◼️享楽=去勢=喪失=穴=トラウマ
ラカンによる享楽の最後の定義は去勢である。
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享楽は去勢である[la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles, 26 Février 1977)
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そしてこの去勢は「斜線を引かれた享楽」と記される。
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われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10 Janvier 1968)
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もともと享楽は去勢されており斜線を引かれている。この去勢という斜線を引かれた享楽の意味は「享楽の喪失」があるということである。
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去勢は享楽の喪失である[ la castration… une perte de jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
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去勢あるいは享楽の喪失のさらなる別の言い方は穴=トラウマである。
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享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)
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われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)
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以上、「享楽=去勢=喪失=穴=トラウマ」である。
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この前提でセミネールⅩⅦのラカンの発言を読んでみよう。
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反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。
ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. …フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.]〔・・・〕
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享楽の対象は何か?[Objet de jouissance de qui ?] (…) これが「大他者の享楽」を意味するのは確かだろうか? 確かにそうだ! [Est-il sûr que cela veuille dire « jouissance de l'Autre » ? Certes !] 〔・・・〕
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)
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まず次の三文をどう読むべきか。
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①反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]
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②反復自体のなかに、享楽の喪失がある[dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。
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③反復は喪われた対象の機能である[la répétition est la fonction de l'objet perdu.]
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①での享楽とは②の享楽の喪失と等価である。したがって「反復は享楽の喪失の回帰」であり、この反復が、③喪われた対象の機能である。
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享楽の喪失は先に示したようにトラウマであり、反復はトラウマの回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la traumatisme]としてもよい。
ここではフロイトの次の文をまず置いておこう。
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結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)
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◼️愛の喪失のトラウマ[Trauma vor dem Liebesverlust ]
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ラカンは先ほど掲げたセミネールⅩⅦで《フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると》と言っているが、もちろんフロイトには「享楽の喪失」などという表現は直接的にはない。あるのは「愛の喪失」Liebesverlustである。
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愛の喪失の不安[Angst vor dem Liebesverlust]は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアルなものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児の欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst] を反復していることを。それは確かに母からの分離[Trennung von der Mutter]を示している。
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die Angst vor dem Liebesverlust, ersichtlich eine Fortbildung der Angst des Säuglings, wenn er die Mutter vermißt. Sie verstehen, welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt wird. Wenn die Mutter abwesend ist oder dem Kind ihre Liebe entzogen hat, ist es ja der Befriedigung seiner Bedürfnisse nicht mehr sicher, möglicherweise den peinlichsten Spannungsgefühlen ausgesetzt. Weisen Sie die Idee nicht ab, daß diese Angstbedingungen im Grunde die Situation der ursprünglichen Geburtsangst wiederholen, die ja auch eine Trennung von der Mutter bedeutete. (フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
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「愛の喪失の不安」における不安とは、トラウマのことである。
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不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)
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つまり愛の喪失の不安とは「愛の喪失のトラウマ」Trauma vor dem Liebesverlust である。
ここで先ほど示したラカンにおける「享楽=去勢=喪失=穴=トラウマ」を思い起こそう。ラカン曰くの「享楽の喪失」とは、フロイトにおける「愛の喪失のトラウマ」を意味するのである。
◼️大他者の享楽[Jouissance de l'Autre] =モノの享楽[Jouissance de La Chose]=喪われた母の享楽[Jouissance de la Mère perdu]
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ここでもう一度上に掲げたセミネールⅩⅦの文に戻る。ここではその後段である。再掲しよう。
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享楽の対象は何か?[Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに![« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]〔・・・〕
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸の水準にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…Au-delà du principe du plaisir …cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)
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ここでラカンは大他者の享楽は事実上、モノの享楽と言っている。「モノ=享楽の対象=喪われた対象」が大他者である。
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モノとはセミネールⅦの定義において、母あるいは母の身体である。
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)
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モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20 Janvier 1960)
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この母なるモノが享楽の対象=喪われた対象である。
ここでフロイトの次の二文を掲げる。
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母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
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(初期幼児期における)母の喪失(母を見失う)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)
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セミネールⅩⅦで示されたラカンの《大他者の享楽》とはこの《喪われた母なる対象[Mutterobjekts verlorenen]》の享楽であり、これがモノの享楽に相当する。
このモノの享楽[Jouissance de La Chose ]は、穴の享楽[Jouissance du Trou] Chose ](より厳密には穴の表象S(Ⱥ)の享楽)ともすることができる。
モノとは結局なにか? モノは大他者の大他者である。〔・・・〕ラカンがモノとしての享楽において認知した価値は、斜線を引かれた大他者(穴)と等価である。
Qu'est-ce que la Chose en définitive ? Comme terme, c'est l'Autre de l'Autre. (…) La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré. (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
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斜線を引かれた大他者 Ⱥ (穴)の価値を、ラカンはS(Ⱥ) というシニフィアンと等価とした[la valeur de poser l'Autre barré[Ⱥ]…que Lacan rend équivalent à un signifiant, S(Ⱥ) ] (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas 18 décembre 1996)
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ーー《モノは斜線を引かれている[“chose” est barré]》(J.-A. MILLER, La logique de la cure, 4 mai 1994)
◼️究極の欲動の対象[Objekt des Triebes] =享楽の対象[Objet de jouissance]は母胎への固着[Fixierung an die Mutterleib]にかかわる
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究極のモノ、すなわち喪われた対象についてセミネールⅩⅠのラカンは胎盤だと言っている。
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例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)
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この胎盤はフロイトにおいては《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)、あるいは母胎に相当する。
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)
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フロイトにおいての去勢の原像(あるいは喪失の原像)は母胎の喪失である。
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration]、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。
Man hat geltend gemacht, daß der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils empfinden mußte, daß er die regelmäßige Abgabe des Stuhlgangs nicht anders werten kann, ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. (フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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この去勢の原像とはもちろん出産外傷(出生外傷)に相当する。
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出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう「原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。
Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)
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(※ここでは原トラウマ=原固着が示されているが、フロイトラカンにおいて「原」を外したトラウマが語られるときでも、すべて固着と見做してよい。)
さてここにある母への原固着=原トラウマとは、母胎への固着[Fixierung an die Mutterleib]と言い換えうる。
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中期フロイトは欲動の対象は固着にかかわると言っている。
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欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。
Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年)
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フロイトの欲動とは、ラカンの享楽である。
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享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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穴はトラウマである、《現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».]》(Lacan, S21, 19 Février 1974)
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以上により、原トラウマとしての母への原固着(母胎への固着)が、究極の欲動の対象[Objekt des Triebes] =享楽の対象[Objet de jouissance]にかかわるとすることができる。
なおラカンの享楽の原像ーー斜線を引かれていない享楽ーーは子宮内生活(フロイトの原ナルシシズム)である[参照]。
子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。
La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça. (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)
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もちろん享楽の原像への回帰とは、母なる大地への回帰であり、死である。
最後に享楽の原像、享楽の穴 、剰余享楽(穴埋め)の関係を図示しておこう。
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ジャック=アラン・ミレールは次のように図示しているが、厳密には上のようになる筈である。
ーー《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance.]》 (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)