バルトはラカンからやたらに学んでいるのであって、前回、「読書の快楽」で掲げたパラノイアは主人の言説、強迫神経症は大学人の言説、ヒステリーは文字通りヒステリーの言説、倒錯は分析家の言説だよ。
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私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11、13 Mai 1964、摘要 ) |
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つまり、倒錯の式は「a ◊ $」であり、まさに分析家の言説だ、少なくとも形式的には同一だ。 なお、これはよく知られているだろうが、《強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache》( フロイト『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)ーーだからな。 四つの言説の図式を見ればすぐわかるように、ヒステリーの言説と大学人の言説は裏表だよ。つまり大学人の言説としての強迫神経症はヒステリーの方言だ。 |
だいたいラカンの四つの言説を学んでいる者はツイートするたびに自分がどの言説で話しているかぐらい意識してんだろ? 重要なのは言説を固定せず、最低限ツイートのたびに移動させることだよ。
このボクの投稿でも2度移行させてるぜ。
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以下、確認の意味で「読書の快楽」を再掲しておくよ。
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人は、読書の快楽[plaisirs de lecture]のーーあるいは、快楽の読書[lecteurs de plaisir]のーー類型学を想像することができる。 それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ず、読書の神経症[la névrose lectrice]とテキストの幻覚形式[la forme hallucinée du texte]との関係を結びつけるだろう。 フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot. 強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。 L'obsessionnel aurait la volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages (cette classe réunirait tous les logophiles, linguistes, sémioticiens, philologues : tous ceux pour qui le langage revient). パラノイアは、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。Le paranoïaque consommerait ou produirait des textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes. (強迫神経症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。Quant à l'hystérique (si contraire à l'obsessionnel), il serait celui qui prend le texte pour de l'argent comptant, qui entre dans la comédie sans fond, sans vérité, du langage, qui n'est plus le sujet d'aucun regard critique et se jette à travers le texte (ce qui est tout autre chose que de s'y projeter). |
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(ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年) |
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なおジャック=アラン・ミレールは、遺著『明るい部屋』に関してだが、「バルトの天才」と言ってるぐらいでね。 |
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『明るい部屋』のプンクトゥム[punctum]は、ストゥディウムに染みを作るものである[fait tache dans le studium]。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果[l'Effet de réel]と呼ばれるものである。 La chambre claire …Ce punctum c'est en quelque sorte un détail qui mobilise spécialement et qui fait tache dans le studium étale de l'image. Moi je prétends que c'est directement inspiré du Séminaire XI de Lacan, dans le style propre, le génie propre de Roland Barthes. …et qui s'appelle l'Effet de réel. (J.-A. Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011) |
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❖附記
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精神分析的記述(ラカンの記述である。語る人なら誰でも、ここで、その洞察の鋭さを確かめ得るだろう)に従えば、教師が聴講者にしゃべる時、「他者」はつねに存在し、彼の言述に穴をあける。そして、たとえ彼の言述が無謬の知性で完結し、科学的《厳密さ》や政治的急進性で武装していても、やはり穴はあけられるだろう。私がしゃべりさえすれば、私のパロールが流れさえすれば、私のパロールは外に流出するのである。もちろん、すべての教師が精神分析の被験者の立場にあるとはいっても、受講する学生が逆の状況を利用できるわけではない。なぜなら、まず第一に、精神分析的な沈黙には、何ら優越する点がないからである。第二に、時折、被験者が殻を破り、こらえることができず、パロールに身を焼き、弁論の淫らなパーティーに加わるからである(たとえ被験者が頑固に押し黙っているとしても、彼はまさに自分の沈黙の頑固さを語っているのだ)。 |
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しかし、教師にとって、受講する学生は、やはり、模範的な「他者」である。なぜなら、彼らはしゃべらないふりをしているからであるーーしたがって、また、その無言の外見の中から、それだけに一層強く、あなたの中で語るからである。彼らの表に出ないパロールは私自身のパロールなのであるが、彼らの言述が私の中を満たさないだけに一層、私に打撃を与えるのである。〔・・・〕 |
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これが公的なパロールというものの背負う十字架である。教師がしゃべるにせよ、聴き手がしゃべるように要求するにせよ、いずれの場合も、まっすぐ(精神分析用の)長椅子に向かうのだ、教育の関係はその関係によって促される転移以上のものではない。《学問》、《方法》、《知識》、《観念》が群をなしてやってくる。それらは余分にあたえられるものであり、剰余である。(ロラン・バルト『作家、知識人、教師』1971,Tel Quel) |
みなさん、公的なパロールやってるだろ、例えばツイッターで。だから精神分析の患者だよ。音調が欠けてる、という不具合はあるがね。
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精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
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精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。 そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年) |
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他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年) |

